ぷれすスタッフによる不定期連載コラム
なんでも書いていいって言ったじゃないか! 第24回
蕎麦前を楽しむ
三輪しののい
小学生の時に信州に帰省すると、祖父は長野駅から少し歩いたところにある、こぢんまりしたお蕎麦屋さんに連れて行ってくれた。注文するのは決まって「三色蕎麦」だった。ふだん目にする蕎麦のほかに更科(白)と田舎(黒っぽい)のせいろが重ねられ、その珍しさに胸を弾ませたものである。
そんなわけで立派な蕎麦好きに成長して現在に至る。
年中どこでも食べられる蕎麦だが、ちゃんと旬があってそれは秋から冬にかけてである。
夏にまいた種はすぐに芽を出し、1カ月もすれば茎の先に小さな花を咲かせ、大地を白く覆いつくす。夏の日差しをふんだんに浴び、実が黒くなると収穫で、その間およそ3カ月という勢い。
春に播種して夏に収穫するものもあるが、やはり本命は長袖の時期に食すものである。
筆書体の「新そば」という張り紙が店の入口や壁を飾ると、改めて季節の移ろいを感じる。
お昼時にさっと食べるのもよいが、日暮れが早くなった物悲しさのなか、店の明かりに慰めや憩いを求めるのもよい。できれば夕方の開店すぐを狙って「蕎麦前」から始めたいものだ。店内はまだ静かだし、お店の人も身じまいがきちんとしていて清々しい。
板わさや沖漬けなどを肴に、きりっとした冷酒を舐めながら、小さな黒板に書かれた本日のおすすめなんかを眺める。お通しで出てくることも多い蕎麦味噌も外せない一品だ。
お酒とつまみで程よくお腹をほぐしたら、お待ちかねの蕎麦を出してもらう。
湯を泳ぎ、水でしまった蕎麦は、せいろやざるの上で「ととのいました」と言わんばかりだ。
ひと口めはつゆをつけず、ふんだんにその香りとうま味、喉ごしを迎え入れて胃に落とし込む。池波正太郎の教えのとおり真ん中から箸を入れていき、つゆに浸す量を変えたりしながら風味の濃淡を面白がる。蕎麦の上に薬味をのせて味の角度を変えるのも楽しみの一つだ。
せっかくの新蕎麦だからといつもより時間をかけてはみても、すぐに食べ終わってしまうのが蕎麦というもの。
箸を置いて、少し前に用意されていた蕎麦湯をつゆにまぜてすすり、息をととのえながら店を出る心づもりをする。
蕎麦屋の長居は無粋らしい。
こんなふうにお酒を楽しみながら蕎麦を食べられるようになったのは、40代になってからである。若いころは蕎麦前など退屈でできなかった。
四季の移ろいを毎年当たり前に目にできるとは限らない。年齢を重ねればそのことがわかる。生かされていることへの感謝が芽生え、迎え入れては後にしていく季節への敬意から、旬の食べ物を意識するようにもなった。そしてお酒を飲みながら思い出に耽ったり、反省したり悔しがったり、明るさを取り戻したりする術を覚えた。
人生の年輪が増えたことにより、時間への寄り添い方が変わったのだ。だから蕎麦前を退屈だなどとはもう感じないのである。
今年もなじみの店で新蕎麦を食べよう。これを機に三色蕎麦の美味しいところも探してみようか。
祖父に連れて行ってもらった店はだいぶ前になくなってしまった。写真も残っていないし、ただ記憶の中に浮かぶ像をなぞるだけである。
そば時や 月の信濃の 善光寺 (小林一茶)
日本酒を傾けながら、過ぎた季節に思いを馳せつつ、今この時をしっかり味わいたいものである。
〈出版の窓〉
少し前に「蕎麦屋の出前」が若者に通じないという記事を目にしました。
校正をしていると時々、「最近見聞きしないな」という表現に出合うことがあります。ネットで調べたり周りの意見を参考にしたりして、指摘を入れるべきかママとするか、なかなか悩むものです。
文芸作品のセリフの場合、キャラクターの設定であえて使っているのかもしれないし、実用書ではその表現がターゲット層にしっくりくるケースもあるでしょう。
言語感覚は人それぞれなので、独りよがりにならず立ち止まって考えることが必要です。言葉はみんなで共有しているものですし、社会のなかで「生きている」ものですから。
《著者プロフィール》
三輪しののい
1976年生まれ。神奈川県出身。