ぷれす通信

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ぷれすスタッフによる不定期連載コラム

なんでも書いていいって言ったじゃないか! 第5回

ぷれすスタッフによる不定期連載コラム

個人的な物語―メタファーとしての猿楽珈琲―

 

三輪しののい

 

もう15年位も前のことだけれど、仕事から離れて、しばらくのんびりしていた時期がある。なんだか、あれやこれやといろいろあって疲れてしまったのだ。

けっこうキツかったけれど、故郷で就職した大学時代の友達が心配してわざわざ会いに来てくれたり、電話や手紙をくれたりしたのでなんとか持ちこたえることができた。友達はだいたい女性だった。卒業後もマメに手紙を書いたりメールのやり取りをしたりしていて、そういうのは男より女性の方が多いものである。電話やメールはまだしも、男どうしで手紙のやり取りをするのはなんだか照れくさい。

 

仕事のことは考えずにジョギングしたり散歩に出たり、喫茶店の本を片手に電車に乗って訪ね歩いたりした。初夏の緑がきれいな季節だったけれど、梅雨の気配もあり気分はあまりよくなかった。

 

その「猿楽珈琲」という喫茶店は代官山にあった。店は地下にあり、地上には黒い木板に白い字で「猿楽珈琲入口」と書かれたあまり目立たない案内がある。眩しい光と喧噪から逃れるように注意深く階段をおりると、シェードランプの明かりが暗闇に浮かぶ、趣のある店に行きあたる。ほの暗いランプの数々がその店の光のすべてだ。

古い木材を利用した内装で、個室風の席があり、そうでない席も他の客と視線が合わないようにうまく仕切られている。贅沢な時間を過ごすための工夫が凝らしてあるのだ。木材の一部は取り壊された同潤会アパートのものらしい。

時計の振り子の音と、静かにかかるモダンジャズ。ある時、大人しやかな店主がレコードをスリーブにしまうのを目にしてびっくりしてしまった。スクラッチノイズがまったくなかったので、てっきりCDだと思っていたのだ。

まだ携帯電話が普及したばかりのころで、地下に電波が入らず、ノートパソコンを持ち込む人もいない。客はたいてい一人で本を読んだり、何もせずにくつろいだり、穏やかな時間をコーヒーとともに過ごしていた。つれあいのいる人も「ひそひそ」声で、店の雰囲気を大切にしていた。

 

同じ沿線でそう遠くないし、僕はそのたたずまいや客層のよさに魅せられ、毎週のように通うようになった。

たいてい「にがめの珈琲」(ややマイルドな「ふつうの珈琲」と、かなり深煎りの「二十三番地珈琲」というのもあった)とトーストをたのんだ。ほかにもメニューがあったけれど覚えていない。

注文ごとに豆を挽くので、そのあいだひと息ついて、バッグから筆記用具と便せん(もしくはポストカード)を出す。琥珀色の明かりの中で、手紙やカードのお礼、電話やメールで受けた相談事に対する自分の考え、出かけた場所や、読んだ本、見た映画やビデオなど、書くことについて思いを巡らした。

コーヒーとトーストが運ばれると、芳醇な香りが身を包み込み、しばらくテーブルの様子を眺める。カップの中のコーヒーは、いつもシェードランプの明かりを浮かべていた。

ゆっくりひと口ずつ味わってから、いよいよ手紙に取りかかる。言葉をさがして頭の中で文章を練り、それを便せんに書き連ねていった。

トーストのパンくずが落ちたり、コーヒーがはねたりして、便せんにしみができてしまうこともあったけれど、まあ仕方ない。喫茶店で書いているんだもの。それだって手紙の大切な一部なのだ。相手がこの手紙の封を切ったときには、店の匂いだって届くかもしれない。

腕を組んだり、目を閉じたり、頬づえをついたり、壁の木目をそっと撫でてみたりしながら、なんとか最後の一文までたどり着く。読み直しながら、冷たくなってしまったコーヒーを口にする。封筒に住所と名前を書いて、準備しておいた切手を貼ると、毎回すがすがしい気持ちになった。

最後のひと口を飲みほすと、カップのランプは消えてなくなる。僕に対する「閉店」のお知らせだ。

 

もちろん、手紙ばかりを書いていたわけではない。本もけっこう読んだ。この店で読み切ったというわけではないが、いろいろなタイトルを持ち込んだものだ。

戦後に流行作家として名をはせた舟橋聖一の大衆小説が気に入って、内容はほとんど忘れてしまったが、『雪夫人絵図』『若いセールスマンの恋』などを読んだ覚えがある。上下巻の『白い魔魚』はわりと覚えていて、風間三三子という、ちょっと意地悪な演劇をやっている登場人物が印象的で、今でも大切に書棚にしまってある。

ほかにも萩原朔太郎『猫町』、永井荷風『つゆのあとさき』を持ち込んだし、外国文学ではロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』(当時ベートーヴェンをよく聴いていた)、アンドレ・ジッドの『田園交響楽』を読んだ記憶がある。

いずれにしても、読書にはぴったりの居心地のいい喫茶店だった。

 

季節も変わり、仲間たちの励ましや読書による言葉の力のおかげもあり、しだいにやる気のようなものが出てきた。自信を取り戻すことができたのだ。

仕事に復帰すると、うまい具合に人生がまわり始め、いつの間にか充実した毎日を送るようになっていた。忙しくはあったけれど、逃れたいほどではない。

しかし、それにつれて代官山からは足が遠のいてしまった。土日は人でごった返すし、猿楽珈琲も平日とはいささか客層や静かさが異なっている。楽しみにして出かけたところ、満席で入れないこともあった。

やがて一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年が過ぎ……、あるとき、もう何年も足を運んでいないことに気づいた。

ああ、久しぶりに「にがめの珈琲」を飲みたいな。代官山の街の様子もずいぶんと変わったに違いない。そんなことを思いながら、手元のiPhoneで猿楽珈琲を検索してみると「移転」の文字が目に飛び込んだ。

悲しいかな、もう代官山の「あの場所」に猿楽珈琲はないのだ。

 

僕にとって猿楽珈琲はいまや、ある時期の自身のメタファー(暗喩)である。

20代半ば、ものの見事に社会の壁にぶち当たり、転んで擦りむいたあげく足がすくんで前に進めなくなってしまった。僕は平日の空いた時間帯、日差しの眩しさから身を隠して受け入れてくれる場所が必要だったのだ。地下におりていき、自分の中にある言葉を見つけ出し、あるいは新しい言葉を学び取り、それを誰かに向けて書き連ねることで、自己療養と自己変革を試みていたのだ。

だから、地上の光がどれだけ強く眩しくても平気になったとき、その地下から遠ざかることになったのは必然だった。そこに戻ろうとしてみても、もう同じ空間は用意されていなかった。つまり、記憶の一部として懐かしむだけにしておきなさいということだ。

 

僕は若いうちに一度くらいキツい挫折を味わい、じっくりと自身の内奥と向き合う方がよいと思っている。そこは真っ暗で怖いかもしれないけれど、しばらくするとぼんやりとでもほのかな明かりを目にすることができるはずだ。その明かりを一つひとつ手繰り寄せていけば、少しずつ明かりは広がり、やがて未来に向けての手がかりをつかむことができる。猿楽珈琲の明かりのもとで、僕が言葉に希望を見出したように。

 

みな個人的な物語を日々つむいでいく。それを「読み応えのあるもの」にするには、しかるべき時期に相応の苦みや深みを味わっておくべきなのだ。

待ったなしに時間は過ぎていき、気づかないうちに思い出の場所は変遷している。その変遷を知ることは、自分の足跡を再確認し、未来に向けて今を意味のあるものにしていく過去からのメッセージの受領なのではないか、そんな気がするのだ。

 

 

〈出版の窓〉

本文で触れた『白い魔魚』の奥付には「著者検印」がついている(写真参照)。今ではすっかり見かけることのないこの捺印の切手みたいなものは、明治20年の出版条例に始まり、著者が自著の発行部数を確認するための手段として貼られていた。明治26年の版権法制定で法的には不要になったが、慣習としてずっと続き、検印が印税額を証明する手がかりであった。また、コピー版作成防止としての役割も果たしていた。昭和30年代になると、著作権や出版権といった権利が一般に普及し、著者と出版社との信頼関係や、発行者の印税計算責任によって、出版社ごとに検印を廃止する方針へと向かった。今でも「検印廃止」の文字をちゃんと載せている版元もある。

著者が数千部すべて一人で捺印していたとは思えないが、それでも一枚一枚せっせと検印している姿を想像すると微笑ましいものがある。紙の出版物の楽しみとして、初版部数のうちいくらかを著者検印(もちろん本人が捺印)つきで流通させるのも、出版不況と呼ばれるなかでのサプライズの一つになるのではないかと思ってみたりもする。

 

参考文献・参考サイト 

『東京おさぼり喫茶』 交通新聞社 2002年

「JRRCマガジンNo.68 半田正夫の著作権の泉 第38回『奥付と検印』」 公益社団法人日本複製権センター2016年8月10日配信

 

 

《著者プロフィール》

三輪しののい

1976年生まれ。神奈川県出身。